夫がミッドライフクライシスに陥り、離婚しました。
今日は「ネガティブケイパビリティ 不確実性に耐える No.2」です。
ざっくりいうと「分からないことがあっても、それをそのままとして耐える」能力のことです。
前回書いた時は、元夫がなぜ一人になりたいか、離婚したいのかがよく分からない。
元夫の気持ちの不確実性に耐えることについて書きました。
今回は「自分がどうしたいか分からない」という不確実性についてです。
なぜ自分の気持ちが分からないのか。
それは、彼からほぼ月一(又はそれ以上)のペースで食事に誘われるからです。
少し頻度が多過ぎではないかと思います。
(というか、そもそも会うべきではない気もします。)
先日会ったときに聞いてみました。
離婚するとき、やりたいと言ってたことは続いているのかと。
全てやめたと言ってました。
時間がないそうです。
仕事から帰って、ご飯作って、筋トレしたら、他のことをやる時間はないそうです。
その通りだと思いました。
仕事して帰って、ご飯作るだけでも結構大変です。
今はコンビニ弁当、Uber Eats などいろいろありますが、体においしいもの、お惣菜などは手作りの方が優しい味です。
以前、「美しく、そして下世話に」でも書きましたが、美しく生きようと思ったら、内実は大変、全然美しくないんです。
水鳥と同じです。
水面から上はすいすいと何食わぬ顔。
でも水面下では必死で足を動かして泳いでるんです。
家事の大変さに今頃気付いたのかなという気もしますが、いずれにせよ、彼の考えていること、方向性が未だに分かりません。
なぜなら、和やかに食事して、おしゃべりしても、彼は自分の気持ちについては一切話してくれないからです。
(離婚前からそうだったから、離婚に至ったのかもしれません。)
でも、それはもうほぼどうでもいいんです。
今、私が悩んでいるのは、私はこれからも彼と何らかの縁を持ち続けたいのか、持ち続けるのならどういう関係を築きたいのかということです。
彼はできれば私と友達でいたいと言いました。
私ももちろん友達でいたいと思います。
でも、何度も書いていますが、彼に他の女性がいて、それでも友人でいられるかは自信がありません。
自分がどうしたいのか分からないんです。
最近は、一人がさみしいのかどうかさえ、分からなくなってきました。
あんなにさみしがりやだったのに。
もちろん、先日、過呼吸で倒れたぐらいなので、今、私にはかなりのストレスがかかっていると思います。
でも生まれて初めて一人暮らしてみて、案外悪くないなと感じているのも実感です。
以前とは違い、元夫を客観的に見られるようにもなっています。
以前ほど盲目的には信じてはいないということです。
(以前は盲目的に信じていたのがよくなかったのかもしれません。)
元夫は人としてはいい人だと思います。
彼の、いい人で努力家であるところが好きで結婚しました。
彼は今、戦っている。
探しているんだと思います。
生きる意味を。
先日会ったときに、ヴィクトール・フランクルのことを言いかけたのですが、やめました。
私から知るよりも、自分で悩んで知った方がほうがいいと思ったからです。
離婚後、元夫と会うときは毎回緊張します。
先日会うときは、また、過呼吸になりそうになりました。
白黒つけてもう会わないようにした方がいっそ楽かと思うときもあります。
でも、それではやっぱりダメだと思います。
経験すべきものを経験し、知るべきことを知ってからじゃないと、どうしたいかは分からない。
逆に言うと、経験すべきものを経験し、知るべきことを知ったら、どうしたいかは案外すんなり決まるんだと思います。
だから私はもう少しの間だけ、ネガティブケイパビリティ、自分の気持ちの不確実性に耐えようと思います。
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