夫がミッドライフクライシスになり、離婚しました。
今日は「みんないってしまう」についてです。
ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、「みんないってしまう」というのは、故山本文緒さんの作品のタイトルです。
その中の一節を以下に引用します。
「みんないってしまうんだな。私は小さな自分の一人の部屋を眺めてそう思った。この手の中に確かにあったと思ったのもが、みんな掌から零れ落ちてしまった。
永久に続くのかと思ったもの。初めての手痛い失恋も、幸せだった新婚時代も、子育ても、夫の帰らない孤独な夜も、郊外の家での延々と続いた日常生活もみんな過去になった」
数年前、私は1週間ほど入院しました。
入院中に偶然読んだのが、山本文緒さんの「再婚生活 私のうつ病闘病日記」でした。
入院はうつに関連するものではなく、当時は元夫のメンタルもまだやられてはいませんでした。
それでも何となく惹きつけられ、山本文緒さんの他の著作も読むようになったのです。
当時はなぜ彼女の作品にそれほど惹きつけられるか分かりませんでした。
「みんないってしまう」を読んだのはそれから数年後です。
ただ、その時もさらっと読んだだけで、そのままになっていました。
それから数年経ち、去年、元夫がミッドライフクライシスに陥りました。
そのせいで、私は夜中に時々目が覚めるようになりました。
そんな時に再読したのが「みんないってしまう」です。
一度読んでいるので、筋は分かっているのですが、分かっているがゆえに安心し、また眠りに付けると思って、読み始めたのです。
そこでこの一節に目が留まりました。
数年前、初めて読んだときはスルーしていて、全く印象に残っていませんでした。
アガサ・クリスティーの「そして誰もいなくなった」に似たタイトルだな~なんて思いながら読んでいたぐらいです。
でもその一節を読み、「山本文緒さんて孤独をかみしめていた人なんだなあ」と思ったのです。
「冷めた目を持った人、自分を突き放して見ることのできる人だったんだなあ」とも思いました。
私も思ってました。結婚生活が永久に続くと。
でも、幸せだった新婚時代も、夫のいない孤独な日も、延々と続いた平凡な(と思っていた)日常生活もみんな過去になりました。
私がこのブログを書くようになったのも、山本文緒さんに影響されていると思います。
山本文緒さんはうつ病の時に日記をつけておられます。(本当にひどいときはやめておられますが。)
ミッドライフクライシス離婚の立ち直り方について書かれた本にも、日記を付けることがうつ病防止によいと書かれています。
(配偶者のミッドライフクライシスで、うつその他の病気になる人は多いようです。)
それで私もこのブログを始めたのです。
山本文緒さんの華やかな経歴、エッセイの明るい口調からは、うつであれほど苦しまれる理由は傍からは分かりません。
でもご本人の中では、強烈な孤独感とそれをはねのける強烈な生命欲が常にぶつかっていたような気がします。
孤独の中でこそ味わえる、生きているというヒリヒリとした実感を、小説やエッセイの中では淡々と語っておられたのかもしれません。
この一節だけだと、少し寂しい気持ちになります。
でも話の結末はこう結ばれています。
「一つ失くすと、一つ貰える。そうやってまた毎日は回っていく。幸福も絶望も失っていき、やがて失くしたことすら忘れていく。ただ流されていく。思いもよらない美しい岸辺まで」
暗い、冷たいだけかと思いきや、それだけではない。
そこには「思いもよらない美しい岸辺」があるかもしれない。
山本文緒さんが体験されたこと、感じたことなのかは分かりません。
でも今の私には、とてもしっくりきました。
一つ失くすと、一つ貰える。
元夫と出会う前に、同じようなことを考えたことがありました。
あることを断ちました。
そのおかげで彼と出会い、結婚したと思っていました。
それでいいと思ってました。それがいいと思ってました。
でもそうやって確実に手に入れたと思っていたものも、見事に零れ落ちていきました。
でも、それが私。私の人生なんですね。
小此木啓吾氏の「自らの運命を受け入れる」という考え、私と同じく、ミッドライフクライシス離婚を経験したアメリカ人女性の「Let it be(あるがまま)」という考え方と似ているなと思いました。
0 件のコメント:
コメントを投稿